バッハのソナタの2番Graveとともに目覚めました。目覚めながら頭の中で音楽が鳴っているのはいつものことですが、今日は言葉が浮かびました。
「何者かである以前に自分は自分だ」と。
こんな簡単なことを、もう長いこと忘れていた気がします。だから春の緑の美しさも、日の出や入日の空の美しさも、どこか膜が張ったようにまっすぐ心に入ってこなかったんだ。と腑に落ちた瞬間、ドサッと鎧かぶとが取れたように身も心も楽になりました。
昔私がいろいろな方にすすめられても、外国を拠点に音楽をやりたくない理由として、「子供の頃にエクアドルから戻って日本になじむのに何年もかかった。ようやく日本を好きになって、日本人だという自覚を手に入れて、今の自分がいるのに、また外国に行ってしまったら、それを失ってしまいそうだから。」と母に話すと、母は即座に「どこにいようと、あなたはあなたよ。」と答えました。それは目からウロコの言葉で、近頃特によく思い出していた言葉です。
なのに私はその日本に居て、いつのまにか自分ではなくなっていました。自分より一つ浅い「役割」としての自分をこなすことに精いっぱいだったからでしょう。「どこにいても自分は自分。でも、どこにいても自分を置き去りにしたら、自分は自分でなくなる。」今日からこのようにこの言葉を解釈し直そうと思います。
今取り組んでいるバッハの無伴奏ソナタ1、2、3のフーガの中で、バッハはBACH(シの♭、ラ、ド、シ)のパターンを何度か登場させます。1、2、3でそれぞれフーガのコンセプトは異なりますが、愛する者を失った悲しみにもがき苦しむ心情や、祈りを通して自分の心を浄化し、暗いトンネルを抜けた明るさを、広い宇宙のような規模で朗々と歌い上げる中に、ところどころBACHの音型を登場させ、バッハは「自分」というもの、人間の生というものを問い続け、追い続けたのではないか。私は彼の無伴奏ヴァイオリンのソナタとパルティータを全曲をそのように解釈しはじめています。こういった解釈も今回、私の気付きの扉を叩いてくれたのでしょう。
役割は大切なものですが、それを支えるオリジナルの自分はもっと大切ですね。音楽が、美しいだけでは不十分であるように。

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